1. はじめに:遠隔診療の「致命的な弱点」
コロナ禍を経て、オンライン診療(Telehealth)は一気に普及しました。しかし、画面越しの医師たちは共通のジレンマを抱えていました。 「顔色は見える。話も聞ける。しかし、胸の音が聴けない」
患者が「咳がひどいんです」と訴えても、それがただの風邪なのか、肺炎なのか、喘息発作なのか、聴診器なしで判断するのは至難の業です。安全策をとって対面受診を促せば、遠隔の利便性は失われます。
この「ラストワンマイル」を、高価なデバイスではなく、スマホのマイク一つで埋めた企業があります。オーストラリア発のスタートアップ「ResApp Health」です。
彼らは「咳の音」だけで呼吸器疾患を識別するAIを開発し、2022年、製薬の巨人ファイザー(Pfizer)によって約1.79億豪ドル(当時のレートで約160億円規模)で買収されました。
なぜ、製薬会社が「診断アプリ」を欲しがったのか? その背景には、診断技術と治療薬ビジネスをどのように結び付けるかという、出口戦略の具体的な考え方がありました。
2. 創業者たちは何を目指したのか:研究室から現場への橋渡し
ResAppの技術の源流は、オーストラリア・クイーンズランド大学のUdantha Abeyratne教授の研究にあります。
当初の目的は、ビル&メリンダ・ゲイツ財団の支援を受け、医療リソースの乏しい発展途上国で「肺炎による乳幼児死亡」を防ぐことでした。 高価なレントゲンや熟練した聴診技術がなくても、マイク一つでトリアージできないか――その問いが技術の出発点でした。
その技術を大学の研究から実際の医療現場へと橋渡ししたのが、CEOのTony Keating氏です。
大学の技術移転組織であるUniQuest出身の彼は、Abeyratne教授の研究成果を「規制当局が理解できる医療機器仕様」に落とし込み、 遠隔診療プラットフォームの開発者が自社サービスに組み込みやすい API(機能を呼び出すための窓口)やSDK(開発用ツールキット) として提供することで、市場への出口を明確に設計しました。
研究室で生まれたアイデアを、「患者さんのスマホの中で実際に使える医療機器」として形にしていった、この役割分担こそがResAppの大きな特徴だと感じています。
3. どのように診断しているのか:「聴診器」を補う耳
「咳の音だけで診断なんて、精度は大丈夫か?」 多くの医師が抱く疑問です。
ResAppの技術の基盤となった、Udantha Abeyratne教授らクイーンズランド大学の研究グループによる2010年代前半の臨床研究では、 特に小児の肺炎診断において、咳音解析アルゴリズムが「人間の医師による聴診」と同等か、それ以上の感度・特異度を示したという報告があります。
この頃に使われていたのは、現在のような大規模なディープラーニングではなく、ロジスティック回帰や混合ガウスモデル(GMM)といった比較的古典的な機械学習でした。 それでも、「人間が耳で聞き分けている以上の情報が咳音には含まれている」ことを示したという点で、非常に示唆的な結果だったと思います。
なぜか? 人間が聴診器で聞いてい「X線やPCRによる確定診断結果(正解ラベル)」 をセットにした高品質なデータセットを蓄積しました。
その後は、こうして蓄積したデータを土台に、より高度なディープラーニングモデル(咳音のスペクトログラム画像を入力とするCNNなど)を用いた解析へと発展してきています。
現在のResAppDxの内部構造は詳しく公開されていませんが、古典的な機械学習で有望性を確認したうえで、ディープラーニングを含むよりリッチなモデルへと進化させていった、という流れで理解しておくのが実態に近いと感じます。
同じような仕組みを、いわゆるビッグテックがすぐに再現できないのは、アルゴリズムの巧妙さというよりも、こうしたラベル付きの咳データを、臨床現場と協力しながら地道に集めてきたという蓄積の差によるところが大きいのだと感じます。
実際の利用イメージ(患者さんと遠隔診療医のあいだで何が起きているか)
咳音を扱う ResAppDx は、基本的には医療者向け(B2B)のプロダクトとして設計されています。 現場での典型的な使われ方は、次のような流れだとイメージしています。
- すでに遠隔診療プラットフォーム上で診療している医師が、診察の途中で患者さんに「このアプリを立ち上げて、今から咳を数回録音してください」と依頼します。
- その場で患者さんが咳を録音し、アプリ側で前処理されたうえでAI解析にかけられます(処理がスマホ側かサーバー側かは公表情報からは分かりません)。
- 「肺炎リスク高」「喘息増悪の疑い」といった判定結果が、遠隔診療プラットフォーム上の医師画面に表示されます(必要に応じて患者さんの画面にも表示)。
- 医師は、AIの結果と問診内容・基礎疾患などの背景情報を併せて確認し、「対面受診が必要か」「どの程度の緊急性か」「どの検査を追加すべきか」といった判断を行います。
あくまでAIは「聴診の代わりになる補助情報」であり、最終的な方針決定は医師が行う——この役割分担の明確さも、医療現場で受け入れられている理由の一つだと感じます。
4. なぜ買い手はファイザーだったのか?
ここで注目したいのは、ResAppが遠隔診療の会社ではなく、「製薬会社」に買収されたという点です。
ファイザーの狙いは何だったのでしょうか。 当時、ファイザーはコロナ治療薬「パキロビッド(Paxlovid)」やワクチン、さらには多くの呼吸器系パイプラインを持っていました。
現時点でResAppDxは医療者向けの診断補助ツールですが、もし将来的に患者さん主導で自宅からセルフチェックが行われ、その結果を入口にオンライン診療へつなげられるようになれば、
- 自宅でAIによるセルフチェック(咳音解析)
- そのままオンライン診療へ誘導
- 医師による確定診断のうえで、必要に応じてファイザーの治療薬が処方される
- 薬が自宅に届く
ファイザーは単なるアプリを買ったのではなく、「診断の結果から自社薬の処方につながる、一連の流れを作る仕組み」を手に入れたのだと考えられます。
診断技術そのものの収益性(SaaS利用料)よりも、その先にある「自社の治療薬が適切な患者さんに届く機会を広げ、その結果として中長期的な売上・利益の拡大につなげること」にこそ、大きな価値を見いだしたのだと思います。
5. 最後に:私がResAppから学んだこと
ResAppの事例を調べながら、臨床に携わる一人の医師として、いくつか考えさせられる点がありました。
1. 「スマホでどこまでできるか」を起点に考える 呼吸音を扱うサービスについて、私自身は「スマホのマイクで呼吸音を記録・解析して診断を支える仕組みがあればよいのに」と以前から感じていました。 ResAppはまさにそれを実装し、「患者さんの手元に既にあるスマホのマイク」だけを前提に医療機器としての承認を得ています。 新しい専用ハードを開発する前に、まずはスマホという共通インフラでどこまでできるかを丁寧に検討することの重要性を、改めて意識させられました。
2. アルゴリズムよりも「ラベル付きデータ」の質と量が決定的 AIというとアルゴリズムの優劣に目が行きがちですが、ResAppの価値の源泉は「咳音」と「確定診断」をきちんと対応づけて蓄積した臨床データにあります。 どれだけ多く、どれだけ正確なラベル付きデータを集められるかが、最終的な性能と再現性を左右します。 自分の専門領域でも、まずは小さなスケールでもよいので、「診療の流れをできるだけ崩さずにラベル付きデータを蓄積していく仕組み」をどう作るかが、一番の肝になると感じました。
3. 「誰の役に立つか」と「誰が費用を負担するか」は別問題 診断の精度向上は、医師として当然追求したいテーマですが、それだけでは持続的なサービスにはなりません。 ResAppは、最終的に「治療薬を提供する製薬企業」にとっての価値を明確にし、その延長線上に買収という出口がありました。 診断技術を考えるときにも、医師や患者さんの臨床的メリットに加えて、「その結果によって経済的なメリットを受けるのは誰か」という視点を併せ持つ必要があると学びました。
「風邪かな?」と思ったとき、病院へ行く前にスマホに咳を聞かせる。そんな未来は、決して遠い話ではなくなってきています。 音、画像、表情——。日常のあらゆるデータが「診断」に変わる時代に、医師である私たちはこの変化をどう受け止めるのか。 従来の技術を守りながら、それを補完・拡張するデジタルツールを、自分たちの手で設計していけるのか。 ResAppの事例を、その問いを考える一つの材料として共有できていれば幸いです。