はじめに:羅針盤としてのビジョンと、地に足の着いたリアリティ
臨床の意思決定は、本質的に不確実性を内包しています。私たち医師は、断片的な情報と経験則を基に、確率論的な思考の中で最適解を模索します。 このプロセスにおいて、「もし未来をより高い解像度で予測できれば、より良い介入が可能になるのではないか」という問いは、医療が始まって以来の根源的なテーマと言えるでしょう。
この問いに対する一つの解となりうる「医療デジタルツイン」という概念について、全5回にわたり段階的に整理して検討していきます。
医療デジタルツイン(MDT)という概念は、患者一人ひとりの完璧なデジタルレプリカを創造し、その仮想モデル上で未来の健康状態や治療反応をシミュレーションすることで、医療を根底から変革するという、壮大で野心的な羅針盤としてのビジョンです。
しかし、この理想化されたビジョンに対し、臨床現場や科学界からは当然の懐疑論も生まれます。その核心は、「そもそも、複雑怪奇な人間という存在を、本当に数理モデルでシミュレーションすることなど可能なのか?」という根源的な問いです。この問いは、誇張されたマーケティング文句と科学的真実とを分ける、極めて重要な一線を示しています。
本稿では、この問いに正面から向き合います。まず、なぜ「完璧な数理モデル」の構築が現時点では非現実的なのかを生命の根源的な複雑性から解き明かします。
次に、その難問に科学技術分野がどう立ち向かっているのか、すなわち「ハイブリッドモデル」という現実的な解法を提示します。
そして最後に、その結果として「今、現在、どのような形で医療デジタルツインが存在しているのか」を、具体的な応用スペクトラムとして明確に描き出すことで、理想と現実の調和点を探り、未来への道筋を構造的に示します。
1. なぜ「完璧な数理モデル」は不可能なのか?―生命の根源的複雑性
一人の人間を包括的に表現する、単一の第一原理に基づいた完璧な数理モデルの構築は、現時点の科学では不可能です。その理由は、計算能力の限界というよりも、生命そのものに内在する、乗り越えがたい3つの複雑性に起因します。
1.1 階層構造の壁と予測困難な現象(スケールの専制と創発現象)
生命体は、ゲノムやタンパク質などの分子レベル、細胞・組織・臓器レベル、さらには個体や社会的行動レベルに至るまで、異なる階層(スケール)が積み重なってできています。それぞれのスケールでは支配する時間軸も物理法則も異なり、それらを1つのモデルで一貫して記述・統合することは非常に困難です。この構造的制約を「スケールの専制」と呼びます。
さらに、これらの階層にある要素が相互に影響を与え合うことで、全体として予測不可能な現象が突如として現れることがあります。たとえば「意識」や「がんの進行」といった複雑な現象は、単なる構成要素の足し算では説明できません。このような上位レベルのふるまいを「創発現象」と呼びます。
したがって、単純な計算モデルでは、こうした多層的かつ非線形なシステムのふるまいを正確に再現することは極めて困難なのです。
1.2 不完全な設計図と見えない環境影響の蓄積
たとえ無限の計算能力を手に入れたとしても、私たちは未だに「人間を完全に再現するための設計図」を持っていません。その大きな理由のひとつが、「データの欠如と把握困難な要素の存在」です。
たとえば、私たちが生きていく中で触れる空気、食べ物、薬物、紫外線、ウイルス、社会的ストレスなど、環境から受ける影響──これを「エクスポソーム(exposome)」と呼びます──は、一人ひとり異なり、しかも生涯にわたって蓄積されていくものです。
この環境因子の履歴をすべて記録・再現するのは、現実的には不可能です。そしてこれは、遺伝情報(ゲノム)だけでは人間の健康状態や病気のなりやすさを説明できない、という事実とも直結しています。
加えて、タンパク質間相互作用(PPI)や遺伝子制御ネットワークなどの生体内メカニズムも、現在の科学では依然として部分的にしか理解されておらず、網羅的な統合モデルを作るには情報が不足しています。
こうした「見えていないが確実に影響している要素たち」は、あえて比喩的に言えば「生命科学の中に存在するブラックボックス」です。モデルに取り込みたくても取り込めない、しかし見過ごせない。これが、医療デジタルツインの構築における、もう一つの本質的な限界となっています。
1.3 「ツイン」という言葉の罠
「医療デジタルツイン」という名称から、しばしば「現実の患者とまったく同じ状態を再現する完璧な仮想コピー」というイメージが連想されがちです。しかしこの期待は、言葉そのものが抱える前提に問題があります。
「デジタルツイン」という概念は、もともとNASAのアポロ計画において、宇宙船の運用をシミュレーションするために用いられた技術に由来しています。そこでは、対象は完全に設計された「工学システム」であり、物理法則に従う部品によって構成され、すべての状態が定義可能であることが前提でした。
この「ツイン」の考え方を、そのまま進化の過程を経て形成され、しかも常に変化し続ける人間の身体や生命現象に適用しようとすると、どうしても無理が生じます。人体は、工場で組み立てられる機械とは異なり、必ずしも“再現可能な構成図”を持っているわけではありません。
したがって、「医療デジタルツイン」とは、実際には“そっくりに再現されたレプリカ”ではなく、「限られた情報と技術を用いて構築された、確率論的な予測モデル」であると捉えるべきです。
この視点の転換がなければ、実装現場での誤解や過剰な期待が先行し、本来目指すべき「意思決定支援ツール」としての価値が見落とされてしまう危険があります。
2. 不可能を可能にする「ハイブリッドモデル」という現実解
生命という複雑な存在を1つの理論だけで説明しようとするのではなく、科学界では今、複数の手法を組み合わせる「ハイブリッドモデル」というアプローチが現実的な解決策として注目されています。
このモデルは、2つの異なるタイプの技術──①生物の仕組みを理論的に記述する「メカニスティックモデル」と、②大量のデータからパターンを学ぶ「データ駆動型モデル」──を組み合わせ、それぞれの強みを活かして互いの弱点を補う方法です。
- メカニスティックモデル(数理モデル):心臓の拍動や薬が体内でどう動くか(PK/PD)など、すでに仕組みがよくわかっている現象を、理論に基づいて正確に記述します。ただし、新たな要因や未知の現象には対応しにくく、柔軟性に欠けます。
- データ駆動型モデル(AI/機械学習):過去の膨大な診療データや画像情報などから、仕組みを知らなくてもパターンを見つけ、将来の状態を予測します。しかし、どうしてそう予測されたのか理由が分かりにくく、信頼性や解釈性に課題が残る場合もあります。
この2つを融合させたのがハイブリッドモデルです。 まず、生物のしくみに基づいて作られたメカニスティックモデルが「骨格」となり、そこに不確実な要素や複雑な関係性を、AIが「肉付け」するように補っていきます。つまり、理論の安心感と、データの柔軟性の“いいとこ取り”をしたモデルです。
このようなアプローチは、「意味がわかるモデルでありながら、予測力もある」という、医療の現場で非常に価値の高い性質を持ちます。そのため、医療デジタルツインの構築において、今後の主流になると期待されています。
表1:医療デジタルツインにおけるモデリングパラダイムの比較分析
3. 「今、存在する」医療デジタルツインの具体的な姿
ここまで見てきたように、完全な再現が不可能である現実に対して、ハイブリッドモデルという柔軟な考え方が導入されています。では、こうした考え方を背景に、現在の医療現場では医療デジタルツイン(MDT)がどのような形で実際に活用されているのでしょうか。 デジタルツインは、ひとつの固定された形を持つわけではありません。その用途や求められる精度の違いに応じて、さまざまな「かたち」で存在しています。大きく分けると、次の3つのタイプに分類することができます。これらは、ツインが「何を対象にしているか」と「どの程度の再現性(忠実度)を持つか」によって整理できます。
3.1 業務ツイン(オペレーショナルツイン):医療システムの最適化
最も実用化が進んでいるのがこのタイプです。対象となるのは患者個人ではなく、病院やクリニック全体といった「医療機関そのもの」です。 たとえば、病院内の患者の流れ、診療の順番、病床の使用率、スタッフの配置状況などをシミュレーションすることで、業務全体の効率を最適化することができます。 季節ごとの外来数の増減や、検査機器の混雑具合を予測し、事前にリソースを調整できれば、現場の負担も減り、医療の質も向上します。実際、日本でも富士通と東北大学が共同で開発した業務最適化システムが、この分野の代表例として知られています。
3.2 手術・デバイスツイン(サージカルツイン):医療処置の高度化
こちらは、主に外科手術や医療機器開発の現場で活用されているタイプです。 患者さんのCTやMRI画像をもとに、身体の内部構造を仮想的に再現した「その人だけの3Dモデル」を作成します。そして、そのモデルを使って執刀医が手術の手順を事前にシミュレーションしたり、練習したりすることができます。 これにより、手術の安全性や成功率を高めることができるのです。日本では、コニカミノルタが内視鏡手術のためのトレーニングシステムを開発しており、こうしたサージカルツインの分野でも実用化が進んでいます。
3.3 臓器・疾患特異的ツイン:臨床研究の最前線
このタイプのデジタルツインは、もっとも“理想的な医療の未来像”に近い領域と言えます。 ここで取り組まれているのは、人間の全身を丸ごと再現するようなモデルではなく、特定の臓器(たとえば心臓)や、あるいは特定の疾患(たとえばがんや心臓病など)に焦点を絞った、精度の高いデジタルツインの構築です。 たとえば、シーメンス社の「Digital Heart」は心臓の動きを精密に再現することを目指した取り組みであり、こうしたツインを使うことで、患者ごとの病気の進行や治療の反応を事前にシミュレーションできるようになります。 この分野のモデルは非常に複雑で、あらかじめ知られている医学的な仕組みと、AIによる予測の両方を活用する「ハイブリッド型」で作られます。ゲノム情報や血液検査データ、診療記録といった多様なデータを組み合わせて、個々の患者に最適化されたモデルを構築するのです。 日本でも、武田薬品工業が創薬の過程でこのようなツインを使っていたり、国の研究機関(AMED)によって特定の病気に特化したプロジェクトが進められていたりと、着実に社会実装が始まっています。
表2:医療デジタルツインの適用スペクトラムとモデル忠実度
4. データという最大の障壁
医療デジタルツイン(MDT)を成り立たせる上で、最も重要でありながら同時に最も難しいのが「データの取り扱い」です。
MDTでは、電子カルテに記録された診療情報、ゲノムなどの高次元な生体情報(オミクスデータ)、ウェアラブルデバイスからの連続的なバイタル情報、さらにはCT・MRIなどの医用画像といった、形式も性質も異なる多様なデータをひとつに統合する必要があります。
ところが、現実の医療現場では、病院ごとにデータの記録方法が違っていたり、システム間で情報のやりとりがうまくいかなかったりすることが多くあります。こうした「データがつながらない問題(相互運用性の欠如)」は、ツインの活用を大きく妨げる要因となっています。
さらに、実際のデータには、入力ミスや測定のばらつき、データの抜け(欠損)などが含まれることも少なくありません。そのまま使ってしまうと、モデルの予測結果が不正確になってしまうため、「データの質を高める作業(クレンジングや品質管理)」が非常に重要になります。
つまり、MDTの進化は、「良質なデータをいかに確保し、うまくつなぎ合わせられるか」にかかっているとも言えるのです。
5. 再定義されるべき期待値と、次なる問いへの架け橋
本稿を通じて、私たちは冒頭で掲げた問い──「人間を数理的に再現することは可能か?」──に対して、現時点で得られる2つの答えを提示しました。 ひとつは、生命の仕組みが非常に複雑であるため、たったひとつの理論で“完全なコピー”をつくるのは現実的ではない、ということ。
もうひとつは、それでも科学の現場では、「目的に合わせて部分的に再現する」ハイブリッド型の取り組みが進み、すでに多くの実例が生まれているということです。
この現状をふまえると、医療デジタルツインは「すべてを再現する完璧な双子」ではなく、「特定の医療課題に応じて作られた、柔軟で高精度なシミュレーションモデルの集合体」として捉える方が現実的です。
そしてこの理解は、次の問い──「では、こうしたモデルは実際にどうやって医療現場で役に立っているのか?」──につながっていきます。
次回、第2回「臨床応用における価値創出のメカニズム」では、診断、治療、手術といった具体的な場面で、デジタルツインがどのように活用され、どのように価値を生み出しているのかを、実践的に掘り下げていきます。
6. 参照資料
- Medical Digital Twin: A Review on Technical Principles and Clinical Applications URL: https://www.mdpi.com/2077-0383/14/2/324 発表日: 2025年1月21日
- Concepts and applications of digital twins in healthcare URL: https://xugroup.eng.ucsd.edu/wp-content/uploads/2024/11/94.pdf 発表日: 2024年8月9日
- Digital Twins in Health Care: Ethical Implications of an Emerging Engineering Paradigm URL: https://www.frontiersin.org/journals/genetics/articles/10.3389/fgene.2018.00031/full 発表日: 2018年2月13日
- Digital twin for healthcare systems - PMC URL: https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC10513171/ 発表日: 2023年9月7日
- Digital Twins in Healthcare: Methodological Challenges and Opportunities URL: https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC10608065/ 発表日: 2023年10月23日
- 生命モデリングコア|QBiC 生命システム研究センター - 理化学研究所 URL: http://www.qbic.riken.jp/japanese/research/core02.html http://www.qbic.riken.jp/japanese/research/core02.html
- デジタルツインの医療への活用事例4選|5大メリットや活用法も解説 - メタバース総研 URL: https://metaversesouken.com/digitaltwin/medical/ 発表日: 2024年1月12日
- デジタルツイン技術の医療・健康分野における応用可能性と倫理的・法的・社会的課題(ELSI) URL: https://www.jstage.jst.go.jp/article/jicp/6/1/6_89/_html/-char/ja 発表日: 2022年11月14日
- デジタルツインに関する国内外の研究開発動向 URL: https://www.jst.go.jp/crds/pdf/2021/RR/CRDS-FY2021-RR-09.pdf ◦ 発表日: 2022年3月