アルツハイマー病の早期発見に挑む米国のスタートアップ「Altoida(アルトイダ)」について、医師としての視点も交えながら解説します。
「認知症の検査」と聞いて、どんなものを思い浮かべるでしょうか? おそらく、診察室で医師と向かい合い、「今日は何月何日ですか?」「100から7を引いてください」といった質問に答える場面ではないでしょうか。
Altoidaのアプローチは、それとは全く異なります。 患者さんがやることは、スマホやタブレットを持って部屋の中を歩き回り、AR(拡張現実)で表示された「仮想の鍵」を探すゲームです。
なぜ、そんな「ゲーム」が医療機器として開発されているのか? そこには、神経科学に基づいた非常にロジカルな「発想の転換」がありました。
Startup Fact Sheet
企業名: Altoida Inc. (アルトイダ) 設立: 2016年(研究の起源は2000年代初頭のスイス) 本拠地: Washington D.C., USA / Lucerne, Switzerland CEO: Marc Jones プロダクト: Altoida NeuroMarker Platform(デジタル認知評価プラットフォーム) 特徴: スマホ/タブレットのARとセンサーを用いた「没入型テスト」で認知機能を測定 規制ステータス: FDA Breakthrough Device Designation(画期的医療機器指定)取得済み ※現行製品はInvestigational Use Only(研究用) 主要投資家: M Ventures (Merck), Eisai Innovation (エーザイ), Hikma Ventures 等
1. 創業者が「行動」に注目した理由
Altoidaを率いるのは、ヘルスケアビジネスと神経科学のプロフェッショナルたちです。
現CEOのMarc Jones(2023年6月就任)は、ヘルスケアテック分野で25年以上のキャリアを持つ経営のベテランです。 直近ではbinx healthのCOO兼CFOとして約1.2億ドルの資金調達を主導したほか、T2 BiosystemsではCFOとしてIPO(新規上場)とFDA承認製品の商業化を成功させるなど、「医療スタートアップをスケールさせ、社会実装する」手腕に定評があります。
そして、共同創業者でありCSO(最高科学責任者)のIoannis Tarnanas, Ph.D.は、長年デジタルバイオマーカーと計算論的神経科学を研究してきた科学者です。
彼は、神経科学の研究において「ある事実」に注目していました。 それは、「アルツハイマー病の初期段階では、海馬(記憶)よりも先に嗅内皮質(空間ナビゲーション)が変化する」という点です(これはBraak Stagingという病理学的分類でも示されている医学的な定説です)。
さらに、「歩行速度の低下やデュアルタスク時のふらつきといった『行動』の変化こそが、早期発見のサインになる」という点にも着目しました。
「脳の異変は、まず身体の動きに現れる」。 この医学的な確信があったからこそ、彼らは既存の標準的な検査に対して、強い違和感を抱いていました。
ここで言う従来の検査とは、MMSE(Mini-Mental State Examination)やHDS-R(長谷川式簡易知能評価スケール)のことです。 これらは世界中で使われている標準的な検査ですが、内容は「100から7を順番に引いてください」「さっき覚えた3つの言葉を言ってください」といった、いわゆる「ペーパーテスト(机上の検査)」です。
「机の上のテスト」では、生活の能力は分からない
従来のペーパーテストは「静的」です。静かな部屋で椅子に座り、記憶や計算をするだけ。 しかし、私たちの実際の生活はもっと複雑です。 買い物に行き、献立を考えながら商品を探し、レジでお金を払い、電車に乗って帰る、こうした「手段的日常生活動作(IADL: Instrumental Activities of Daily Living)」こそが、認知症の初期段階で障害されやすい機能です。
Altoidaは、認知症を単なる「物忘れの病気」ではなく、こうした「複雑な日常タスクがスムーズにできなくなる病気」と捉え直しました。 そして、この「日常の複雑さ」をデジタルで再現・定量化するために選んだのが、AR(拡張現実)だったのです。
さらに、こうしたテストは「認知的予備能」が高い、いわゆる高学歴な人ほど、初期の機能低下を隠せてしまうという課題もあります。身体の動きは誤魔化せなくても、テストのやり方を覚えて点数を維持できてしまうのです。
2. スマホARで「脳の処理速度」を測る仕組み
仕組み解説:AR宝探しテスト「Motor Cognitive Challenge」
Altoidaの「NeuroMarker Platform」で行うのは、10分程度のシンプルなタスク(Motor Cognitive Challenge)ですが、その内容は非常に具体的かつ実践的です。(参考動画: https://youtu.be/dAM3O3c0ilw) https://youtu.be/dAM3O3c0ilw%EF%BC%89
- パートA:隠す(Place):記憶と移動 画面上に「仮想のオブジェクト(例:鍵、本、薬瓶)」が表示されます。患者さんは部屋の中を実際に歩き回り、「ここなら覚えられる」と思う場所(例:机の上、棚の隅)まで移動し、画面をタップしてアイテムをそこに「置く(隠す)」動作をします。これを3つのアイテムで繰り返します。ここでは「どこに置いたか」を記憶しつつ、そこまで移動する身体能力が問われます。
- パートB:探す(Find):想起と空間ナビゲーション 少し別の課題を挟んだ後、「さっき隠したアイテムを探してください」と指示が出ます。患者さんは記憶を頼りに、さっき隠した場所まで歩いて戻ります。正しい場所に近づくとセンサーが反応します。
一見ただのゲームですが、この裏側ではタブレットのセンサー(ジャイロ・加速度センサーなど)が1秒間に数百回サンプリングを行い、プロセス全体を記録しています。
- 迷いなく一直線に歩けたか?(空間ナビゲーション能力)
- 隠した場所に近づいたとき、スムーズに手を伸ばせたか?(微細な手の動きの協調性)
- 「あれ、どこだっけ?」と立ち止まった時間は何ミリ秒か?(脳の処理速度)
- ターンするときのふらつきはないか?(平衡感覚)
これら800種類以上の「微細な動作エラー(Micro-errors)」を、センチメートル単位・ミリ秒単位で徹底的に数値化し、AIが解析することで、人間には見抜けないレベルの認知機能低下を検出するのです。
「身体は誤魔化せない」という発見
ペーパーテストとは対照的に、身体の動きは正直です。「歩きながら、空間を把握し、手で作業する」というデュアルタスク(二重課題)を課すと、脳の処理速度の低下が「わずかな動作の遅れ」として如実に現れます。これを捕まえるのがAltoidaの強みであり、アルツハイマー病発症を最大94%の精度で予測できるという報告もあります。
結果はどう出るのか?(0〜100のスコア)
テストが終わると、AIが即座に解析し、「Neuro Motor Index (NMI)」という0〜100の総合スコアが算出されます。
点数が高いほど脳は健康で、基準値を下回ると「MCI(軽度認知障害)のリスクあり」と判定されます。 さらに、「空間記憶」「処理速度」「運動制御」といった内訳もレーダーチャートなどで表示されるため、単に「リスクがあるかどうか」だけでなく、「自分の脳のどこが弱り始めているか」を具体的に知ることができます。
3. なぜ今、これが重要なのか?(レカネマブの登場)
この技術がいま注目されている背景には、アルツハイマー病治療の劇的な変化があります。
「治療できるようになった」からこそ、「早く見つける」価値が生まれた
これまで、アルツハイマー病の薬(ドネペジルなど)は「症状を一時的に和らげる」ものでした。そのため、「病気そのものの進行を食い止めることは難しい」とされ、早期発見しても根本的な治療手段がないという課題がありました。
しかし、レカネマブ(Leqembi)などの疾患修飾薬(DMT: Disease-Modifying Therapy)が登場し、状況は一変しました。これらの新薬は、「軽度認知障害(MCI: Mild Cognitive Impairment)やごく初期の段階」で投与することで、病気の進行スピードを遅らせる効果が示されたのです。
つまり、「薬で介入できるようになったからこそ、その薬が効くタイミング(MCI段階)で正確に見つけること」に、初めて大きな医療的・経済的価値が生まれたと言えます。 Altoidaは、高価で痛みを伴う検査(PETスキャンや髄液検査)の前に、スマホだけで高精度にスクリーニングを行う「ゲートキーパー」の役割を担おうとしています。
4. 私がAltoidaから学んだこと
Altoidaの事例は、私たち医療者やヘルステックに関わる人間に、重要な視点を教えてくれます。
- 「検査」を再発明する 「認知症の検査=机に向かって質問に答えるもの」という固定観念を捨て、「日常動作そのものをテストにする」という発想転換が秀逸です。医療の質を落とさずに、患者さんが自然に受け入れられる形(UX: ユーザー体験)に変える余地は、まだ多く残されています。
- 既存デバイスのポテンシャルを引き出す 彼らは専用のセンサーを開発しませんでした。iPhoneやAndroidの進化(ARKit/ARCore:スマホに標準搭載されているAR機能の基盤)に乗っかり、汎用デバイスだけで高度な医療計測を実現しています。手元のスマホには、まだ私たちが気づいていない医療機器としての可能性が眠っていることを教えてくれます。
- 規制を味方につける(Breakthrough Device) Altoida関連技術はFDAの「Breakthrough Device Designation(画期的医療機器指定)」を受けています。現在公式サイト上では「investigational use only(臨床研究用のみ)」とされ、まだ正式な商用販売前ですが、単なるヘルスケアアプリではなく「医療機器」として承認を目指す姿勢は明確です。「ゲームのような親しみやすい見た目でありながら、中身は本格的な医療機器」というポジション取りは、今後のデジタルヘルスにおける重要な成功モデルの一つとなるでしょう。
5. 終わりに
Altoidaがまず目指しているのは、診察室や臨床試験の現場で、誰もが負担なく「脳の健康状態」を測れるようにすることです。 もし、あなたのスマホで「10分間の宝探しゲーム」をするだけで、将来の認知症リスクが分かるとしたら、やってみたいと思いますか?
技術はここまで来ています。 「認知症の検査=病院で受ける特別なテスト」という常識が覆り、血圧を測るように自然な形で、脳の健康を守れる時代はもうすぐそこまで来ているのかもしれません。