Takeshi Ikemoto

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トランプ政権のイラン攻撃と「例外状態」の常態化

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はじめに

2026年3月3日、法思想を扱うウェブ誌 Critical Legal Thinking に、英文 Iran and the ‘state of exception’ が掲載された。トランプ政権のイラン攻撃をめぐる報道や論評が続くなかで出た、同日付けの一編である。

この投稿は、核をめぐる事情など個別の経緯はあるにせよ、国際法や宣戦などの手続が想定する順序より先に、政権トップの一決断で局面が動いたように見える事象としてイラン攻撃を読み、その思想的な側面をカール・シュミットの例外状態や友と敵から解いている。

元記事

- URL: https://criticallegalthinking.com/2026/03/03/iran-and-the-state-of-exception/ https://criticallegalthinking.com/2026/03/03/iran-and-the-state-of-exception/

ここから先は、上記の記事が何を論じているかを、順に追います。

1. 記事が問題にしていること

もとの記事は、トランプ政権によるイランへの軍事行動を、単発の戦争ニュースとして終わらせず、国際秩序の前提が揺らいでいる現れとして読もうとしています。戦場の損害や作戦の成否だけでなく、「法と手続きに従って動く世界」から、「誰が例外を宣言し、誰が決断するかが先に立つ世界」へ重心が移りつつあるのではないか、というずれを、思想史の言葉で描き直すのがねらいです。

そのために記事は、二十世紀の法思想家カール・シュミットを何度も参照します。シュミットは歴史的にも評価が分かれる人物ですが、本稿で押さえておきたいのは、彼が緊急時の主権と政治的な他者のとり方について何を論じていたか、という点に限ります。以下、記事の流れに沿って説明します。

2. 例外状態:ルールを止められるのは誰か

例外状態は、日常のニュースで使う「非常事態」とイコールではありません。ここで問題にするのは法秩序のなかの用語で、二十世紀の法思想家カール・シュミットが誰がいちばん強い決定権を持つか(主権)を論じるために整理した考え方です。ざっくり言えば、平常時は法律や手続に従って国家が動いているのに、「ここからは例外だ」としてその枠をいったん外し、別のやり方に切り替える局面を指します。戦争や大規模テロのような、定型的な手順だけでは間に合わない状況で典型的に論じられます。

そのうえでシュミットが繰り返し引用されるのは、次の定義です。主権者とは、例外状態について決断する者である。 平時には憲法や法律が手順を決めますが、いつものルールでは回らない局面では、手続を止めるか、別の措置に切り替える必要が生じます。そのとき「今は例外だ」と誰が言い、どこまで法の通常運用を止められるかが、紙の条文より上に立つ実力としてあらわれる、という見方にその定義はまとまっています。

このシュミットの例外状態という見方を手がかりに、もとの記事はトランプ政権のイラン攻撃を読もうとしています。他国への大規模な武力行使には、国連憲章上の要件や、アメリカの場合は宣戦に関する国内法など、さまざまな法的プロセスが関係するはずです。ところが実際には、指導者が今が極めて危険な瞬間だとほぼ独断で判断し、その結果としてこれらのプロセスが事実上いったん止まったように見える、と分析しているのです。

記事が心配しているのは、その場限りの特例ではなく、そのやり方が繰り返されうる統治の型になりつつあることです。英題の state of exception(例外状態)が、一時の非常事態のまま終わらず常態に近づいている、という読みがここにあります。

3. 友と敵:交渉の相手か、屈服を迫る相手か

続いて、記事のもう一つの柱です。シュミットは政治を「友人か敵か」という区別で捉える立場でも知られています。個人の恨みではなく、共同体として本気で対立しうる他者をどこに置くかという話です。相手を制度のなかで交渉しうる国として扱うのか、屈服か衝突しかない相手として固定するのかでは、外交の前提がまったく変わります。

もとの記事は、トランプ外交を後者に寄った読み方で描いています。イランをまだ長く話し合える相手としてではなく、殲滅や屈服と結びつけて語られる絶対的な他者として位置づけている、というのです。経済的な互恵や人道を理由にした物言いといった、リベラルな国際政治の「表層」をはぐと、敵か味方かという、より古いタイプの力関係が見えてきます。シュミットが自由主義を「政治を薄める」と批判した枠組みから、別種の政治へ世界が引き戻されつつある、という警告だと理解できます。

4. 国際法の空洞と、過去との重ね合わせ

ここまでを踏まえ、記事はさらに一歩進みます。国際法の空洞化です。強国であっても法の下に立つべきだ、という戦後型の理想に対し、法より指導者の決断が現実には上に立ったことを、この軍事行動が示した、という解釈です。また記事は、一九三〇年代にシュミットがワイマール体制のもとで論じた緊急権と憲法の関係を、時代が違うからといって捨てるのではなく、いまの国際政治にも通じる型として重ねています。世界は法なき叢林へ後退しつつあるのではないか、という問いを立てているのです。

5. 全体像:法から決断へ、そして米国政治の文脈

第2節と第3節を合わせると、記事の骨格は次のように短く言えます。法の支配から決断の支配へ。 ルールブックに従って動く世界から、誰が例外を主張できるか、誰を敵と定義するかが先に来る世界へ、重心が移りつつあるのではないか、という見方です。

そのうえで記事の後半は、軍事決断の背後に、ピーター・ティールなどに象徴されるシリコンバレー周辺の政治言説が透けて見える、とも書いています。官僚制やメディアへの不信──いわゆる大聖堂批判──に代表される新反動主義(NRx)に近い論法で、議会や多層の手続より、経営者型の指導者の直感と決断のほうが、システムを更新できるといったイメージが重なります。

キューティス・ヤーヴィンらの国家の株式会社化の話を、今回は大統領の軍事的一手という形で目にした、という読み方ができる、と示唆しているのです。加速主義とのイコールではありませんが、手続き中心のリベラリズムへのもどかしさという点では、論調が重なる場面がある、という程度の位置づけが妥当でしょう。

6. 結論:イラン攻撃が「見せた」もの

もとの記事の帰結に近い要約は、次の一文に集まります。私たちは、法律や条約というマニュアルに従って動く世界から、強力な一人の指導者の決断に、事の成行きが左右されやすい世界へ移りつつあるのではないか。 イラン攻撃は、その転換を国内外に示す大規模なデモンストレーションだった、という理解です。

おわりに

国際秩序がルール中心から決断中心へ寄るとき、ビジネスや医療など組織のリーダーシップを考える場面にも、別の角度からの問いが立ちうるでしょう。緊急時の決断と、手続の正当性をどう両立させるかという古い課題が、現実のほうからまた照らし返されているように感じます。