はじめに:トイレという「プライバシーの壁」をどう乗り越えたのか
医療AIの世界では、「画像診断(Computer Vision)」が広く用いられています。 レントゲン、CT、皮膚の病変。これらをAIに学習させることで、医師の診断を支援しようとする試みです。
しかし、家の中には「カメラを絶対に向けてはいけない場所」が存在します。 そう、トイレです。
排泄という行為は、人間の健康状態を示す重要な情報源(バイオマーカー)でありながら、プライバシーの壁に阻まれ、テック企業が長年十分に取り組めてこなかった領域でした。
今回紹介する「Soundable Health(サウンダブル・ヘルス)」は、この領域に対して「音(Sound)」というアプローチを取り、FDA(米国食品医薬品局)の承認を得たスタートアップです。
「見えないところをあえて撮らない」という考え方は、新しいヘルスケアサービスを検討している方にとって、多くの示唆を与えてくれます。
Startup Fact Sheet
企業名:Soundable Health プロダクト名:proudP(プラウド・ピー) 本拠地:米国(Palo Alto) / 研究開発:韓国(Seoul) 創業年:2017年 ステージ / 推定評価額:Series A(非公開) 累計調達額:未公開(数億円規模と推定 / 投資家にはSpringcampなど韓国系VCが含まれる) 主要パートナー・プログラム:米国および韓国の大学病院泌尿器科、Delight Room(2024年4月に投資・協業開始)、Google for Startups Cloud Program(採択スタートアップ) 規制承認:*FDA承認済みのソフトウェア医療機器として位置づけられている(詳細区分は公開情報ベース)、HIPAA準拠 コア技術:音響AIによる流体力学解析(尿流量計の機能をソフトウェアで代替)
Track your urine flow at home with proudP.
Understand bladder and prostate health better—no cups, no wir
www.proudp.com
https://www.proudp.com/
1. 創業者が「音」に注目した理由
創業者のCatherine Song氏は、神経科学や生体工学をバックグラウンドに持つ科学者であり起業家です。彼女が着目したのは「翻訳されていない生体信号」の存在でした。
中高年男性の多くを悩ませる「前立腺肥大症(BPH)」。 その診断には「尿の勢い」を測る検査(尿流測定)が必須です。しかし、病院の検査室で、看護師や医師が待つ中、機械に向かって排尿するのは大きなストレスです。「緊張して出ない(Bashful Bladder Syndrome)」ことも多く、正確なデータが取れませんでした。
「自宅のリラックスした環境で、医療グレードのデータを取るにはどうすればいいか?」 彼女の答えは、カメラでもウェアラブルでもなく、「スマホを横に置いて、音を聴くこと」でした。
2. 音から「尿の勢い」をどう読み取るのか?
「たかが音で、何がわかるのか?」と思うかもしれません。しかし、彼らの技術は驚くほど精緻です。
技術のポイント:AIと流体力学を組み合わせる
彼らは単にAIに音を丸投げで学習させているわけではありません。
病院にある従来型の尿流量計(ファンネル型の「じょうご」検査機)をゴールドスタンダードとして用い、
機械側で「時間ごとの流量・総排尿量・最大尿流率」などを正確に測定しながら 同時にそのときの排尿音をスマホで録音し、
「この音のとき、実際の流量・流速はこうだった」という教師データを大量に蓄積しています。
そのうえで、「尿の量・速度・落ち方が変わると、音圧・周波数分布がどう変わるか」という流体力学+音響の物理法則を数式モデルとして組み込み、
「この音なら、物理的にこのくらいの流量になるはずだ」という物理的な制約のもとでAIに学習・推定させているのがポイントです。
さらに、トイレの水を流す音、衣服の衣擦れ、換気扇の音などを徹底的に除去するノイズキャンセリングAIを搭載し、
その結果として、高価な医療用尿流量計と90%以上の相関を持つ精度を実現しました。
ビジネスモデル:高価な検査機をアプリに置き換える
従来の尿流測定器は数十万円〜百万円する専用機器でした。 Soundable Healthは、これを「無料のスマホアプリ」に置き換えました。
B2C:ユーザーは無料で健康チェック(セルフケア)。
B2B:泌尿器科医は、患者にアプリを使わせ、その解析データを見るために利用料を払う(あるいは保険償還を狙う)。
物理的な機器を売らず、ソフトウェアだけで医療機器の機能を代替する「Software as a Medical Device (SaMD)」の理想形であり、
尿流量計という専用ハードの役割を、スマホ+物理モデル+AIで置き換えるSoftware-Defined Hardwareの好例と言えます。
3. 3つの視点から見るSoundable Health
「感覚」を数値に変える
外来で「おしっこの出はどうですか?」と聞くと、患者さんは「悪い気がします」「いや、昨日は良かったかも」と曖昧に答えます。
これでは治療方針が決められません。 proudPを使えば、「最大尿流率 12ml/sec」という客観的な数値が手に入ります。医師にとって、患者の曖昧な訴えが「信頼できるデータ」に変わることは、診療の質を劇的に上げます。
「恥ずかしくて受診しにくい領域のニーズに向き合う
とくに「排泄」「性感染症」「精神疾患」など、人が隠したがる領域には、巨大なペインと参入障壁があります。Soundable Healthは「恥ずかしいから病院に行きたくない」という心理的ハードルを逆手に取り、在宅検査の市場を切り拓きました。
規制を「味方」に変える
彼らはこのアプリを医療機器として正式に位置づける道を選び、真正面からFDA(医療機器承認)を取りに行きました。
その結果、同じように「音を録音するだけ」の一般向けアプリとは一線を画し、病院が臨床判断に用いることのできる公式なツールとして採用されうる立場を獲得しています。
さらに、サプリメーカーValensa Internationalとの共同研究や、Google for Startups Cloud Program 採択といった取り組みを通じて、
規制の信頼性(FDA承認)と、スタートアップ・エコシステム内での評価の両方を積み重ねることで、自社のポジションを丁寧に強化していると言えます。
本来は事業の負担になりがちな規制対応について、他社との差別化にもつながる要素として着実に取り組んでいる点は、今後の事業展開を考えるうえでも重要だと感じます。
【補足】Soundable Healthの現在地(Traction)
規制面:proudPはFDA承認済みのソフトウェア医療機器として位置づけられている(Class II / 510(k) 相当とみられるが、詳細は公開情報に基づく整理)。
臨床面: 米国・韓国の大学病院泌尿器科と共同で、尿流測定・下部尿路症状(LUTS)の評価に関する臨床研究・現場実証を継続。
パートナーシップ:Valensa Internationalとのリアルワールドデータ研究、Delight Roomとの睡眠領域での協業など、音響解析技術の横展開も進行中。
エコシステムでの評価:Google for Startups Cloud Program 採択、Digital Health Awards「Best Use of AI in Health Tech」準々決勝進出など、AI×デジタルヘルス領域の有望スタートアップとして認知を獲得。
4. 私がSoundable Healthから学んだこと
この事例から、私自身の取り組みにも活かせると感じたポイントを整理します。
1. 「カメラ」ではなく「マイク」で向き合う プライバシーが重視される現代、カメラによる常時監視には強い抵抗感があります。一方で、マイク(音声・環境音)であれば、適切な設計のもとで生活空間になじみやすく、咳、いびき、関節の音、咀嚼音など「音のバイオマーカー」を無理なく活用できる余地があります。
2. 既存の「高価な検査機」はスマホでどこまで代替できるか 病院にある巨大な機械の多くは、「物理法則+センサー+計算」で構成されています。 Soundableが尿流量計を「スマホ+物理モデル+AI」に移植したように、自分の領域でも専用ハードの機能をソフトウェアに引っ越し(Software-Defined Hardware)できないかを検討してみることが重要です。
ハードウェアをソフトウェア化することで、限界費用を抑えつつ、より多くの人に届けられるモデルを構想できます。
3. 「恥ずかしい」領域にこそ大きな医療ニーズがある 人が他人に言えない悩み、見せたくない部位には、受診をためらうがゆえに医療ニーズが蓄積しがちです。
そこにこそ、デジタルの匿名性と利便性が活きます。「医療×恥」の領域には、まだ十分に応えられていない患者ニーズと、新しいサービスの余地が残されています。
これらは、泌尿器科領域に限らず、他の診療科やヘルスケア以外の分野にも応用できる視点だと感じています。
身の回りにある「音」で、まだ活用されていないものはないか。トイレの音、キーボードを叩く音、歩く足音など、一見ただの生活音に思えるものが、健康状態の変化を反映している可能性もあります。