Takeshi Ikemoto

医療 × 経営 × テクノロジー

Essay·

なぜ今、「志縁」を考えるのか。法の支配が揺らぐ時代に、私たちは何でつながるのか

志縁政治哲学コミュニティ法の支配社会論

世界の空気が、少し変わってきた。 そんな感覚を、私は抱いています。

ルールがあるから大丈夫。 制度があるから最後は守られる。 そんな前提が、静かに揺らいでいるように見えます。

いま起きていることを眺めていると、 単なるニュースの連続ではなく、 もっと深い地殻変動が進んでいるのではないか、と思います。

それをひとことで言うなら、 「法の支配」から「決断の支配」への移行ではないでしょうか。

本来、国家も国際社会も、ルールや手続きの上に成り立っています。 他国への攻撃にも、国家権力の行使にも、 法的な正当化とプロセスが伴うはずです。

それなのにいま前に出ているのは、 「いまは非常時だ」 「待っていられない」 「いま決断しなければならない」 という論理に、私には見えます。

この状況を考えるとき、どうしても浮かぶのがカール・シュミットです。

彼は、主権者とは「例外状態について決断する者」だと考えました。 平時に法を守る者ではなく、 「いまは例外だ」と宣言し、法を停止してでも決断できる者こそが主権者だ、という発想です。

この見方に立つと、今の世界の動きは、かなりはっきり輪郭が見えてきます。

法よりも決断。 手続きよりも執行。 熟議よりも例外。

その背景には、 世界を「敵か味方か」で切り分ける、 シュミット的な政治の影も感じられます。

相手を交渉可能な存在としてではなく、 排除すべき敵として固定する。 政治を、調整の技術ではなく、 剥き出しの生存闘争として捉え直す。

こうした動きが強まるとき、何がすり減っていくのか。

それは、 法が私たちを守ってくれるという感覚ではないでしょうか。

制度があるから大丈夫。 ルールがあるから最後は守られる。 そんな近代社会の前提が、少しずつ痩せていく。 そんな危うさを、私は感じています。

ここで大事なのは、 単に「政治が危ない」と言い切ることだけではありません。 もっと深い問題は、 法や行政だけに依存していた社会の土台そのものが脆くなることだと思うのです。

この点で参照になったのが、宮台真司さんの議論です。

宮台さんは、現代社会が「市場」と「行政」に依存しすぎて、 人間の生存を本当に支えるつながりを痩せさせてきた、と語ってきました。

市場は損得で動きます。 行政はルールで動きます。 けれど、人が本当に生き延びる場面で必要になるのは、それだけではありません。

困っているから助ける。 見返りがなくても支える。 損得を超えて資源を分かち合う。

そうした支え合いが残っている関係。 人が本当に生き延びる土台は、たぶんそこにあるのだと、私は信じています。

逆に言えば、そうしたつながりが痩せた社会では、 人は孤独なまま、不安だけを抱え込むことになります。

そのとき人は、 「敵」を示してくれる強い言葉に引き寄せられます。 「あいつらが悪い」 「あれを排除すればいい」 そうした物語に飛びつき、疑似的な一体感を求めてしまう。

ここで、宮台さんの視点とシュミットの友敵理論が、私のなかでつながります。

支え合う関係が痩せた社会ほど、 人は「敵」の物語に吸い寄せられる。 本物の絆がないからこそ、 偽の絆としての敵味方に依存してしまう。

だから必要なのは、 単に「法を守れ」と叫ぶことだけではありません。 もちろん法の支配は大切です。 それでも、法が揺らいだときにも生きられるだけの、 人と人とのつながりを回復しなければならない、と私は考えています。

ただし、昔に戻ればいいわけではありません。

かつての共同体は、 血縁や地縁によって強く支えられていました。 けれど今、私たちはもうそこには戻れません。 移動し、選び、働き方も暮らし方も変わった社会のなかで、 血縁や地縁だけで生きることはできないからです。

だからこそ、これから必要になるのは、 志でつながる関係ではないか、と思うのです。

何を大切にするのか。 どんな未来を望むのか。 何に怒り、何に希望を感じるのか。

その「志」によって人とつながること。 それが、これからの支えになるはずです。

私は、この流れのなかで「志縁」という言葉を考えるようになりました。

志縁が大事なのは、きれいごとだからではありません。 むしろ逆です。 法も制度も、いつでも私たちを守ってくれるとは限らない時代に、 人が生き延びるための、現実的な技術だからです。

そして、この問いを深めていくと、最後は必ず自分に返ってきます。

私は何を軸に生きるのか。 私はどんな人たちとつながりたいのか。 私は何を差し出せる人間でありたいのか。

その先で見えてきたのが、 私にとっての「挑戦」という軸でした。

時代を読むことは、 結局、自分の生き方を問うことなのだと、いまは思います。